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現代花かつみ考

              加茂花菖蒲園 永田 敏弘 



ノハナショウブの自生地 往時の安積沼とは、このようにノハナショウブが咲き乱れる
沼だったのだろうか。青森県六ヶ所村にて。
 幻の花、「花かつみ」は、古い時代から花菖蒲と結び付けられてきました。ここでは花かつみとは何かについて、花かつみ関係の文献と、花菖蒲関係の古文献から推察してみました。

 こんにちの多種多様な花菖蒲は、山野に自生するノハナショウブのなかから、花色、花形などの変化したものを、人が見つけ出し栽培するようになったのがその始まりです。それがいつの頃かは定かではありませんが、文献に現れて来るようになるのが室町時代から江戸時代前期の頃にかけてなので、どうもその頃に園芸植物としての栽培が始まったと考えて良さそうです。

 そして江戸時代後期になり、旗本松平左金吾定朝、通称菖翁の品種改良により花菖蒲は飛躍的に発達します。この菖翁が、改良の初期に実生した花菖蒲。それが「みちのく安積沼の花且美」と彼が呼ぶ花でした。花菖蒲発達の歴史を語る上で何かと話題にはなるものの、今一つその実体がわからない「花かつみ」という植物について、古文献を探りながら紹介します。


「安積沼の花かつみ」とは
 この「みちのく安積沼」とは、現在の福島県郡山市日和田町一帯に、かつては「海」とも呼ばれたほど広がっていた沼のことです。菖翁は、豫州松山の某なる者から、また肥田豊州と言う友人から、「みちのく安積沼の花かつみ」であるとして花菖蒲を譲り受けます。菖翁はそれをもとに「宇 宙」や「霓裳羽衣」など、未曾有の珍花を作出していったとはっきり述べているわけではありませんが、みちのく安積沼の花かつみは花菖蒲であり、その実生を繰り返すうち、花の形・色共に非常に変わってきたと述べており、これらの事柄が記される菖翁著の『花菖培養録』から、みちのく安積沼とは、菖翁花、ひいては今日の花菖蒲を生み出した、ノハナショウブの変わり花が生えていた場所であることを想像させるのです。しかし、みちのく安積沼とは、ほんとうに今日の花菖蒲の基になったノハナショウブの変わり花が生えていた場所だったのでしょうか。そしてその前に、この「花かつみ」とは、本当に花菖蒲の別名だったのでしょうか。




古歌に詠まれた花かつみ
 この「はなかつみ」という言葉が最初に現れるのは、菖翁の頃よりもはるか昔の奈良時代、『万葉集』の、中臣女郎(なかおみのいらつめ)が大伴家持に贈った次の歌です。

  おみなへし咲沢に生ふる花勝美 かつても知らぬ恋もするかも

しかしこの歌からすると、花かつみとは水性植物の一種のようではありますが、花菖蒲を指しているとも、また何を指しているとも言いきれてはいないようです。そして次に平安時代に入り『古今和歌集』の巻十四の巻頭に、題しらず読み人しらずの歌として、

 みちのくのあさかの沼の花かつみ かつみる人に恋やわたらん

 と、花かつみが何であるかは別として、ここではじめて安積の沼と花かつみは結び付けられます。都からはるかに遠い幻想的なみちのくの安積沼と、そこに咲く花かつみという優美な花との組み合わせは、まことに深遠にして幽玄で、切ない恋心を歌った下の句を見事に引き立たせており、巻十四の巻頭に置かれているように、この歌は古今集の編者にも好評だったようです。

 それ以来、花かつみは安積沼と結び付けて歌われるようになり、以降室町時代までの約四百年間にわたって、この古今集の歌を本歌取りした歌が実際に安積沼に行かなくても次々に詠まれました。そのいくつかを紹介すると。


 郁芳門院根合 寛治七年(1093) 藤原孝善

  あやめ草引く手もたゆく長き根の いかで安積の沼に生けむ


 最勝四天王院障子和歌 建永二年(1207)  家隆朝臣

  夏はまだ安積の沼の花かつみ かつみる色にうつる比かな 


 同            具親

  年をへて又咲にけり花かつみ あさかの沼のちぎりともかな


 内裏名所百首 建保三年(1215)      参議定家卿 

  いかにせむあさかの沼に生ふと聞 草葉につけて落る涙を


 堀川百首 杜若    公実朝臣

  はなかつみ交りにさけるかきつばた 誰しめさして衣にはすらん


 このようにして安積沼は、「塩釜の浦」や「末の松山」などと同じ、みちのくの歌枕の地となり、花かつみは安積沼のみに生える「名物」であると考えられるようになります。平安時代から室町時代にかけて、当時京の都からはるかに遠いみちのくの地は、全てが幻想に包まれた歌人たちのあこがれの地だったのです。平安時代前期には歌人能因法師がみちのくを訪ね、その約二百年後の天養元年(1144)には、西行法師が能因の旅路の跡を辿る歌枕探訪の修業に出ます。





 芭蕉と花かつみ
 こうしたいきさつがあって、江戸時代には芭蕉も能因・西行らの旅路の跡を辿る『おくのほそ道』の旅に立ち、安積沼では、名物の花かつみを尋ねました。

 「等窮が宅を出て五里ばかり、檜皮(ひわだ)の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみ〜〜」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。」


 元禄二年(1689)三月二十日、江戸深川を出発した芭蕉と弟子の曽良は、須賀川に一週間滞在した後、四月二十九日に現在の郡山に入りました。そして翌五月一日(陽暦六月十七日)の早朝、芭蕉らは日和田を経て「安積山」へ向かいます。そして安積沼では、夕暮れまで花かつみを尋ね歩く景色が語られています。しかし、
これは単純に花かつみを探したが見つからなかったと取るよりも、歌枕の地を尋ねさまよう旅人の「風狂に徹した姿」を描いたと考えた方が、この場合ふさわしいのではないかとする考え方があります。平安の歌人が憧れ、能因・西行らも訪れた幻想の安積沼に花かつみを尋ねてさまよう旅人の姿。幻の巷に離別の涙をそそいだ芭蕉の無常観を、この下りの中でも見事に表しているのではないでしょうか。




『花かつみ考』とは
 このように花かつみとは、もともと花菖蒲を指していたのではなく、また何を指すのかがはっきりしないまま、安積沼の名物として人々の関心を集めてきた花でした。そして実際にどのような植物であるかということが問われるよになり、江戸時代の中期から後期にかけて『花かつみ考』という書物が何冊も著わされます。


『俳諧花かつみ考訂』より、花かつみの図(国立国会図書館蔵)

 この『花かつみ考』という書物は、マコモやデンジソウ(水性シダ植物、右図参照)を花かつみであるとして、古歌や古説をまじえながら論証しているものです。国会図書館には、数名の著者によって江戸時代の中期から後期に書かれた『花かつみ考』が、原本・写本あわせ全部で十三冊も納められており、中には寛政の改革を施行した幕府老中、松平定信(白河楽翁)の著わしたものなどもあります。

 そのなかで最も有力な説は、先の能因法師が著わした『能因歌枕』という最古の歌枕書の中に記されている、「こもをば かつみといふ」という一節から来る「花かつみマコモ説」だったようです。このマコモとは、水辺に生える大型のイネ科植物で、夏から秋にかけてイネ科特有の目立たない花を咲かせますが、梅雨頃の葉は、ノハナショウブの葉などによく似ています。

 その頃の歌学者達にとって、菰花(マコモの花)を花かつみと言うのは全く疑う余地もない事だっようで、その根拠は先の『能因歌枕』に依るところが大きく、またみちのくではむかし菰をかつみと呼んだとし、これは今日でも東北の一部で、菰を「かつぎ」や「がつご」と呼ぶ地方があり、かつみの五韻に似ているることなどからも考えられます。またかつみとは、「かてみ(糧実の意)」が転訛したものであるという説もあり、実際にマコモの種子は「菰米」として、飢饉のときの救荒食とされたこともあるそうです。

 しかしマコモは、花かつみと「花」の字を当てるには、まったく花が粗末で、『能因歌枕』の受け売りであるとの批判もありました。また、江戸中期の有名な国学者である加茂真淵らが支持した田字草説にしても、袍紋の花かつみ紋(右図参照)にその姿が似ていることに因りますが、なにぶん花も咲かないような小さなシダ植物でした。






 ノハナショウブ

藤塚知明『花勝美考』より(国立国会図書館蔵)

花かつみ花菖蒲説
 そうしたなかで、寛政七年(1795)みちのく塩釜神社の神官である藤塚知明は、「小ぶりなあやめ」(ノハナショウブ)が花かつみであるという説を表わし、安積の里に住む宗仲という老人の画いたノハナショウブの図を、花かつみであるとして紹介します。

 この花かつみと花菖蒲が結びつくようになったのは、そもそも漢字の伝来と共に、アヤメ科のアヤメやノハナショウブも、サトイモ科のショウブも、「菖蒲」という字と「あやめ」という読みを共有させられ混乱が生じていたところに、平安時代後期になると、先に紹介した根合和歌「あやめ草ひく手もたゆく…」の歌の「あやめ草=ショウブ」が、「いかで安積の沼に生けむ」と、花かつみをふまえて詠まれてあるように、かつみがあやめ(ショウブ)であるとも考えられるようになり、それならばかつみの花である「花かつみ」とは、まったく目立たないショウブの花を指すのか、それとも「花あやめ」、すなわちアヤメやノハナショウブのようなものを指すのか判然としないまま、いつしかノハナショウブも花かつみと結び付けられ、歌に詠み込まれて来たということなのです。『最勝四天王院障子和歌』の歌がこの部類にはいり、美しい花の咲く植物、すなわちアヤメやノハナショウブのような物であることを思わせていますが、実際に何を指しているのかはわかりません。

 それがいつ頃からかは定かではありませんが、江戸時代の中頃には既に、アヤメや他のアヤメ属のほかの植物というよりも、ノハナショウブも含めた花菖蒲のことであると考えられるようになります。これは花かつみと関係する「花あやめ」という言葉が、この時代アヤメよりも花菖蒲を指すようになって来たことからではないかと考えられます。また、もしかしたら安積の「沼」に生える植物であるということから、アヤメより湿地を好む花菖蒲の方が、より結び付け易かったのかも知れません。そして藤塚知明の『花勝美考』が著わされた後、松平定信や大原幽学らもこの説を支持し、菖翁はこの説をさらに一歩進め、安積の沼に生える花かつみこそ花菖蒲であり、それをもとに花菖蒲の改良を行なったとしました。

 このように花かつみ花菖蒲説は、マコモ説と並ぶ有力な説だったわけですが、花菖蒲が始めから花かつみと呼ばれていたわけではなく、「あやめ」の混乱の中で、いつのまにか結び付けられて来たということなのです。








花かつみという花
 そのほか、ひめしゃが説、かたばみ説、葦の花説などの少数意見もありますが、結局のところ「花かつみ」とは、このように様々な説はあるものの先に紹介した『万葉集』と『古今和歌集』の二首を起源とし(この二首が似ているため古今集の歌は万葉集の歌の本歌取りとする説がある、そうすると花かつみ本来の歌は万葉集の一首のみ。)、他に確証となるような文献もなく、『万葉集』にある「あさがほ」が、キキョウであるのかムクゲであるのかわからないように、「花かつみ」もこの二首が実際にどのような植物であるのかをはっきりと語らない限り、詩歌の世界に咲く幻の花と言う以外にないのだそうです。


郡山市が花かつみに指定しているヒメシャガ

 ちなみに現在郡山市では、『おくのほそ道』の一節から花かつみを市の花に定め、ヒメシャガをそれにあてています。これは『相生集』(天保十二年)に、「花の色はさながら菖蒲の如し。葉ははやく繁りて其末四面に垂れ、尋常のあやめなどの生たる姿には似つかず。」とあることや、明治九年の天皇の東北巡幸のさいに、この花を花かつみであるとして天覧に供したことからのようです。










四ひらの花あやめ

ともあれ、ノハナショウブが花かつみであるとした、藤塚知明の『花勝美考』(寛政七年(1795))より、花かつみの生態について記された部分を見てみましょう。


「常のあやめの花に似て少しこぶりなり 色は京紫の少し赤味つよし 此花二本松あさかの里に沢山野山にも有 五六月も花あり(中略) この花がつみ おのれ 仙台の民なべてあやめと呼 池沼水沢に多し 別に花あやめてふ小草の 燕子花に似れるあり それにはあらじ 花の名をかぶらせず ひたすらにあやめてふのみ呼べるこそ あさかの里人の花がつみなれ いにしへ軒の菖蒲にかへて 葺たりし名の 今くちずつたえたるにや 其葉の形も偶然菖蒲にひとし 菰のよきには似もよらじ(中略) 安積の郷に入り 人集いたる民家に 花がつみを問い求むる むくつけきおのこ口つどひて あやめの花にして四ひらなるこそ まことの花がつみに有ぞ 五月に成らば取てませんなどいらへり(中略) さらば四ひらのあやめまぎもとめんと 池沼に臨むに多く得たり(下略)」

普通のあやめに比べて少し小振りであるとか、別に「花あやめ」と云うものがあり、それではないとも述べられていて、いまで言う何を花かつみであるとしているのか、今一つ判然としない所はありますが、ここで言う「あやめ」が、今日でも関東以北の地域で、花菖蒲を単に「あやめ」とも呼んでいるように、花菖蒲を指していると思われることや、掲載されている花かつみの図(上の毛筆で描かれた図)から、ここで言う花かつみとは、やはりノハナショウブを指していると考えられます。

 また、四英咲きのノハナショウブが花かつみであるという説は、以外と支持されていたようで、このほかにも次のようなものがあります。


四英に咲く長井古種系の花菖蒲「一迫」(いちはざま)

『大原幽学全集 ・道の記・巻三』天保十三年(1842) 

花かつみとて、あやめの如き形にて、其花びら四つにして、高さ五六寸也と。此沼より外の所へ植ゑる時は、一ヶ年其如く、二ヶ年めよりは其長さ尺に餘り、花びらも三つに成り、かきつばたに変帰すると云へり。」


松平定信『花月草紙』より「四の巻 八二・かつみ」文政元年(1818)

 「あさかの沼に、よひらの花あやめあり、それを花かつみとはいふべし。」

 四英咲きのノハナショウブが、なぜ特別に花かつみであるのかは詳しくはわかりませんが、どうも四葉の田字草説と関係があるように思います。この四英咲きのノハナショウブは今日でもまれに見つかり、四〜七弁咲きとなる「日和田四英」や「野田五英」など、品種名の付けられているものもあり、宮城県山王あやめ園で古種とされている「一 迫」や江戸古花の「十二単衣」なども、時として四英に咲きます。

 そしてこのように、実際の安積沼にノハナショウブは生えていたのですから、花かつみ花菖蒲説もあり、結び付けられるのはごく自然なことだったと思います。




安積沼跡 地形から、往時沼が広がっていたであろうことが窺える。

安積沼跡碑

安積沼の現状
 現在郡山市は、『おくのほそ道』の一節から日和田町の沼田耕地を安積沼跡とし、そこに碑を立てています。

 日和田駅から程近い現地へ実際に行ってみますと、芭蕉が訪れた元禄の頃にはすでに殆ど田になっていたそうですから、今ももちろん沼があるはずもなく、その地形から昔は沼であったことがわかるという程度で、かつての沼跡はJR東北本線や田圃になっています。
 また、このあたりは東側にある磐悌山や安達太良山と、西にある阿武隈山地との間にあるような平野で、昔はそこらじゅうに沼があったらしく、安積沼も、古くは安積の里にある沼というほどの意味で、碑が立っている場所だけが安積の沼というわけではなく、安積沼と呼ばれる所はいくつもあったようなことも聞きました。
 そしてこの碑のある場所から北西に向かい、国道四号線を超えた西に「菖蒲池」があり、それが今日に至るまで安積沼の名残りとされて来ましたが、平成二年にグラウンドにその姿を変えてしまいました。









菖翁の言う、安積沼の花かつみとは

 さて、「安積沼の花かつみ」とは何かについて長々とお話してきました。確かにかつて安積沼にノハナショウブは生えており、幻の花、花かつみと結びつけられていたようです。しかしそれは、菖翁の『花菖培養録』から私たちが想像する、品種改良の親になるようなノハナショウブの変わり花をさしていた言葉ではありませんでした。

 そもそも菖翁や菖翁の父が花菖蒲の改良をはじめた天明や文化の頃には、その百年も前の元禄年間に刊行された『増補地錦抄』に、三十二品種もの花菖蒲が記載されていることからもわかるように、この頃にはすでにさまざまな品種が江戸市中に広まっていたことが十分に考えられ、なにも野生種の変異を育種親に使用しなければならない時代でもないのです。

 また前にも述べたように、菖翁は肥田豊州という友人から、安積沼の花かつみであるとして花菖蒲を譲り受けていますが、その花のひとつは「濃紫の六英一種殊美にして大輪丸葩の平咲きにて世俗請け咲きと呼ぶ花形なり」とあり、この花もすでに単なる原種の変り花ではなく、園芸的にある程度発達した花菖蒲であったことを示しています。


長井古種の紬娘(つむぎむすめ)
菖翁が花菖蒲の育種をはじめた当時でも、ノハナショウブから
この程度に発達した花は、十分存在したであろうと考えられる。

 それでも菖翁が『花菖培養録』のなかで花かつみを取り上げ古歌をならべたのは、実際に初めて手に入れた花菖蒲が「安積沼の花かつみ」と呼ばれた花だったこともあって、花菖蒲を語る上で、この時代花菖蒲と関係の深かった花かつみを語らないわけにはいかなかったからであり、その花を実生したことを語りながら、平安の昔より数多くの歌に詠まれたみちのくの名所、安積沼に咲く花かつみこそ花菖蒲であり、その実生を行なったという、菖翁自身の『花かつみ考』を述べ、『花菖培養録』に、そして自らが手掛けた花菖蒲に、文学的な意味合いを持たせたのではないでしょうか。

 そして未曾有の珍花は、やはり格別なもから始まっているのだと言うことです。江戸市中に広まっていた、ありふれた花菖蒲からではないのだと。そう解釈すれば、当時江戸にどれだけ花菖蒲が普及していても良い事にもなりますし、実際の安積沼にノハナショウブの変わり花などなくとも良いことになります。 

 しかし菖翁が言う「安積沼の花かつみ」からは、今日の長井古種の存在のように、やはり東北地方にノハナショウブの変わり花が多く産していたことも感じさせます。この、花菖蒲発達の起源ということについても推論の域を出ない謎でしかなく、それに幻の花「花かつみ」を充てたのは、菖翁の感性のすばらしさであるとも言えないでしょうか。

 花菖蒲のことをいま「花かつみ」と呼ぶことはなく、わずかに「八重勝見」や「夢且美」という品種の名前が、花菖蒲と関係があったことを物語っているに過ぎません。しかし「花かつみ」は、花菖蒲が古い時代から人々に愛されて来たことを示す、とても興味深い花菖蒲の古名であると思います。


 さて、今回紹介した「花かつみ」。多くの説や謎に包まれ、いにしえの詩歌の世界にのみ咲くという殊に幽玄なる幻の花。みなさんは何だと思いますか?


参考文献 『福島県郡山市史』ほか