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ト ン ト ン 花

  相模原市  清水 弘


 トントン花という名前はベテランの会員の多くはご存知であろうが、新入会員の一部には知らない方もまだ居られることと思うので此処に紹介しよう。

 「トントン」とは水の盛んに流れているさまを示す擬声語である。ハナショウブの原種であるノハナショウブは山中の流れに近い水湿の地に生え、そこで開花することから、三重県では「トントン花」あるいは「ドンド花」と古い時代に呼ばれ、方言として現在も残っている。中でも伊勢の斎宮(三重県多気郡明和町)のドンド花の群生地は、天然記念物に指定されていることで有名である。(伊勢名所図絵:蔀関月1797、神都名勝誌:神宮司庁1895)
 現在、花菖蒲園で一般に見られるトントン花は、普通のノハショウブよりも花弁の細い小輪で蛍光のある青紫色、茎葉もほっそりとしていて大変風情のあるものである。おそらく伊勢地方の群生地から採取された同一個体が普及したものであろう。

 昨年7月、加茂花菖蒲園の永田敏弘氏と山梨、長野の両県にあるいくつかの野生種の群生地を訪れた。開花中のノハナショウブを観察するためある湿原の中に立った時、トントンという水音が何処からともなく聞こえてきので周囲をよく見ると、湿原の中に水が勢いよく流れて行く一本の小川があり、そこから響いてくる音であるのがよく判った。「トントン花」とは、ノハナショウブを植物生態学的に見た場合のキーワードとなることが実感された。しかし、それはまた同時に我々日本人の意識の奥底に潜むものを考える場合に、別の意味のキーワードとなるのではないだろうか。


 哲学者の和辻哲郎は、戦前、ヨーロッパを訪れドイツに長く滞在して郊外の森をよく散策し、「西洋文明は知性の森を、一方、日は感性の森を持っている。」という言葉を残している。
 これは、ヨーロッツパの森が一端、人間によって破壊された後に、ヨーロッパブナなどを植林し再生されたものであること。また、使われた苗木が横枝のない真っ直ぐなものだけであったため、日本のそれと異なり森自体が非常にきれいで整然としていることを、彼が直感したためと言われている。そのような森の中で思索しながらの彼の散歩は大変気持ちがよっかったに違いない。
 一方、灌木やササがいっぱい生い茂った日本の森は、眼前を覆う木の枝やササに隠れた石ころという具合に、とても呑気に考え事などして歩けるようなものではない。思索を邪魔する鳥や獣、色とりどりの秋の恵みも多くて、大いに五感を刺激したであろう。

 このようなことから、私は「まだ原始の姿が色濃く残っている日本では、西洋人よりも自然現象に対してより敏感だったのではないか」と考えるようなった。神道は八百万の神を持っているが、これは種々の自然現象に対する畏敬の念から発していると思うし、野生の植物を呼称する際には無意識的にこの感性が影響しているのかもしれない。トントン花の名前はそうした日本人の感性に根ざしているのでしょう。